失敗を笑いに変える力を、子どもたちへ
- 名前
- 橋元屋幸守
- 会社名
- 橋元屋幸守事務所
- キャッチコピー
- 落語家にならなくていい
- 一言
- 落語家を育てるのではなく、失敗を笑って話せる人を育てます。
いじめられっ子から金融、林業を経て落語家へ。
転び続けた人生そのものが、子どもたちに届く教材です。
落語家になってほしいわけじゃない。失敗を笑って話せる人になってほしいんです
橋元屋幸守(はしもとや こうもり)事務所は、落語を「人間形成のツール」として届けている事務所です。
小中学校やフリースクール、児童クラブ、放課後デイサービスなどの子どもたちの学びの場に出向き、40分間の落語の特別授業をお届けしています。
イベントや敬老会での落語の口演、大人向けのオンライン落語塾も行っています。
人前で話すのが怖い。失敗した自分を、誰にも見せたくない
授業で子どもたちと向き合っていると、こんな声にたくさん出会います。
うまく話せないから発表が嫌い。
失敗したところを見られたくない。
学校が面白くない、家の人とも話したくない。
大人の方も同じです。
上司とうまくいかない、会社が面白くない、営業でもっと自分を伝えられるようになりたい。
共通しているのは、みんな「失敗を隠したがっている」ということでした。
でも、実際はどうでしょうか。
同じような失敗を、人はみんなどこかで経験しています。
隠すから苦しくなるのであって、話せるようになれば、それは笑いの種に変わります。
漫画で読む、幸守さんが落語を届ける理由
金融から林業へ、そして落語へ。転びながら見つけたのは、自分の失敗も誰かの笑いになるということでした。幸守さんの歩みを、漫画でご紹介します。
落語を教えるのではなく、落語を使って「自己開示できる力」を育てます
漫画で読む、幸守さんが落語を届ける理由
金融から林業へ、そして落語へ。転びながら見つけたのは、自分の失敗も誰かの笑いになるということでした。幸守さんの歩みを、漫画でご紹介します。
橋元屋幸守がやっていることは、落語家を育てることではありません。
落語という日本の話芸を通じて、自分の失敗を面白おかしく人に開示できる、そんな自己表現力を育てることです。
落語には「枕」と呼ばれる、本編に入る前の語りがあります。
橋元屋幸守はこの枕で、まず自分自身の失敗をさらけ出します。
私はこんな人間ですよ、ヒーローでも完璧でもありませんよ、と先に伝えることで、その場が安心して笑える空間に変わっていきます。
この「枕」のつくり方こそが、子どもたちに手渡したい技術そのものです。
失敗を隠さず、笑いに変えて話せる人には、共感が集まります。
共感が集まる人には、信頼が生まれます。
そして信頼される人は、自然とその輪の中心になっていきます。
この授業を通じて手に入るもの
- 人前で自分の言葉を届ける、自己表現力と度胸が身につきます。
- 失敗を「終わり」ではなく「笑いの種」として受け止められる、しなやかな考え方が育ちます。
- 落語を通じて昔の日本の暮らしや文化に触れ、想像する力が広がります。
- 家族や友達を笑わせる楽しさを知り、まわりとの関係そのものが変わっていきます。
実際に授業を受けた子どもたちからは、印象に残った場面を挙げて「このシーンが良かった、ありがとう」と伝えてくれたり、家に帰って家族の前で小話を披露して笑ってもらえた、という感想が届いています。
落語がうまい人ではなく、たくさん転んできた人だから届く言葉があります
技術だけを比べるなら、プロの落語家にはかないません。
橋元屋幸守が持っているのは、落語の技術ではなく、そこに至るまでの人生経験です。
幼い頃はいじめられっ子でした。
高校時代は郵便局の配達のアルバイト、大学時代はスーパーとスキー場。
社会に出てからはノンバンクのクレジットカード会社に20年勤め、リーマンショックで職を失いました。
そこから林業へ、そして落語家へ。
まったく共通点のない仕事を渡り歩いてきた道のりそのものが、いま高座の言葉ににじみ出ています。
人生は失敗が7割、成功が3割。
それが橋元屋幸守の実感です。
だからこそ、うまくいっている人の成功談ではなく、転んで、また立ち上がってきた人の言葉として、聞いている人の心に届きます。
笑いを必要としている地域、学校、企業、団体へ。
社会を笑顔にするために、橋元屋幸守は今日も高座に上がります。
最前列で、居眠りをしてしまったんです
私は、堂々と人前に立てるような人間ではありませんでした。
子どもの頃はいじめられっ子で、大人になってからも、自分のことばかり考えて生きてきた人間です。
そんな私が落語家になったきっかけは、恥ずかしい失敗からでした。
20年勤めた会社を、ある日失いました
高校時代は郵便局の年末年始の配達のアルバイトをしていました。
原付の免許もまだ取れなくて、雪の降る寒い中を自転車で年賀状を配って回っていました。
大学時代はスーパーとスキー場。
社会人になってからは、ノンバンクのクレジットカード会社に勤めました。
そこで20年です。
このまま定年まで勤めるのだろうと、どこかで思っていました。
けれどリーマンショックがやってきて、私はリストラの対象になりました。
そこから林業の世界へ移りました。
金融からいきなり山の仕事です。
共通点は何ひとつありません。
自分の人生は、いったいどこに向かっているのだろうと思っていました。
師匠と目が合った、あの瞬間
8年前のことです。
私が住む島根県に、桂米朝一門会がやってきました。
久しぶりに落語を聞けると思って、私は最前列に座りました。
そして、あろうことか居眠りをしてしまったのです。
はっと目を覚ましたとき、高座にいらしたのが桂ざこば師匠でした。
そして、目が合ってしまいました。
師匠は何もおっしゃいません。
けれど、伝わってきた気がしたのです。
わしが一生懸命話しているときに、お前は最前列で寝るんか、と。
その日の最後、ざこば師匠がご挨拶に出てこられました。
自分は今、脳梗塞のリハビリ中で、落語ができる状態ではない。
治ったら必ずまたこちらに来て落語をさせていただくので、そのときはよろしくお願いします。
そう言って、大阪へ帰っていかれました。
私は打ちのめされました。
リハビリの最中というそんな大変なときに、わざわざ大阪から島根まで来て、200人ものお客さんの前で落語を披露したくなる。
落語とは、師匠にとってそこまで大切なものなのか。
家に帰ってすぐ、ざこば師匠の音源を探しました。
CDを取り寄せて聞き、桂米朝師匠の落語や文献にも手を伸ばし、島根に来る落語会には片っ端から通いました。
学んでいるうちに、聞くだけでは足りなくなっていきました。
そして独学で覚えた一席を、地元の敬老会で披露させてくださいとお願いしたのが、私の落語家としての最初の一歩です。
集客ゼロの落語会が、私を変えました
始めてからも、うまくいかないことばかりでした。
山奥の温泉で落語会を主催したとき、お客さんがひとりも集まらなかったことがあります。
私は温泉に来ているお客さんに片っ端から声をかけて回りました。
半額でもいいから聞いてくださいと頭を下げて、なんとか5人。
情けない話です。
ところがそのときのことを、プロの落語家である桂竹千代さんが「コウモリ殿」という一席に仕立ててくださいました。
私を主人公にした落語を、全国で演じてくださったのです。
自分の情けない失敗が、誰かを笑わせる材料になっている。
あんなに嬉しかったことはありません。
開業のときも綺麗な話ではありませんでした。
貯金はゼロ。
経営のことなど何ひとつわからないまま信用金庫に行き、事業計画書を書いてくださいと言われて、書き方がわからずに固まってしまいました。
悩んでいた私に、知人がこう言ってくれました。
そんなことをしていたら熱意が伝わらない、何でもいいからとりあえず書いて持っていきなさい。
その言葉で書き上げて、100万円の融資が下りたときは、自分にも信用がついたのだと思えました。
笑いのある場所を、ひとつでも増やしたい
以前の私は、自分のことしか考えていませんでした。
けれど今は、人の役に立てないか、笑いで誰かに貢献できないか、そればかりを考えています。
不思議なもので、自分を一度脇に置いてから、仕事のほうが回り始めました。
戦争はいまも世界のどこかで続いています。
落語を楽しめる時間があるということは、それだけで平和なことなのだと思います。
私の落語が、その平和に一歩でも近づく力になれたらと本気で思っています。
落語家になってほしいわけではありません。
失敗しても大丈夫だと、自分の口で言える人を増やしたい。
そのために、私はこれからも高座に上がり続けます。

最前列で、居眠りをしてしまったんです
私は、堂々と人前に立てるような人間ではありませんでした。
子どもの頃はいじめられっ子で、大人になってからも、自分のことばかり考えて生きてきた人間です。
そんな私が落語家になったきっかけは、恥ずかしい失敗からでした。
20年勤めた会社を、ある日失いました
高校時代は郵便局の年末年始の配達のアルバイトをしていました。
原付の免許もまだ取れなくて、雪の降る寒い中を自転車で年賀状を配って回っていました。
大学時代はスーパーとスキー場。
社会人になってからは、ノンバンクのクレジットカード会社に勤めました。
そこで20年です。
このまま定年まで勤めるのだろうと、どこかで思っていました。
けれどリーマンショックがやってきて、私はリストラの対象になりました。
そこから林業の世界へ移りました。
金融からいきなり山の仕事です。
共通点は何ひとつありません。
自分の人生は、いったいどこに向かっているのだろうと思っていました。
師匠と目が合った、あの瞬間
8年前のことです。
私が住む島根県に、桂米朝一門会がやってきました。
久しぶりに落語を聞けると思って、私は最前列に座りました。
そして、あろうことか居眠りをしてしまったのです。
はっと目を覚ましたとき、高座にいらしたのが桂ざこば師匠でした。
そして、目が合ってしまいました。
師匠は何もおっしゃいません。
けれど、伝わってきた気がしたのです。
わしが一生懸命話しているときに、お前は最前列で寝るんか、と。
その日の最後、ざこば師匠がご挨拶に出てこられました。
自分は今、脳梗塞のリハビリ中で、落語ができる状態ではない。
治ったら必ずまたこちらに来て落語をさせていただくので、そのときはよろしくお願いします。
そう言って、大阪へ帰っていかれました。
私は打ちのめされました。
リハビリの最中というそんな大変なときに、わざわざ大阪から島根まで来て、200人ものお客さんの前で落語を披露したくなる。
落語とは、師匠にとってそこまで大切なものなのか。
家に帰ってすぐ、ざこば師匠の音源を探しました。
CDを取り寄せて聞き、桂米朝師匠の落語や文献にも手を伸ばし、島根に来る落語会には片っ端から通いました。
学んでいるうちに、聞くだけでは足りなくなっていきました。
そして独学で覚えた一席を、地元の敬老会で披露させてくださいとお願いしたのが、私の落語家としての最初の一歩です。
集客ゼロの落語会が、私を変えました
始めてからも、うまくいかないことばかりでした。
山奥の温泉で落語会を主催したとき、お客さんがひとりも集まらなかったことがあります。
私は温泉に来ているお客さんに片っ端から声をかけて回りました。
半額でもいいから聞いてくださいと頭を下げて、なんとか5人。
情けない話です。
ところがそのときのことを、プロの落語家である桂竹千代さんが「コウモリ殿」という一席に仕立ててくださいました。
私を主人公にした落語を、全国で演じてくださったのです。
自分の情けない失敗が、誰かを笑わせる材料になっている。
あんなに嬉しかったことはありません。
開業のときも綺麗な話ではありませんでした。
貯金はゼロ。
経営のことなど何ひとつわからないまま信用金庫に行き、事業計画書を書いてくださいと言われて、書き方がわからずに固まってしまいました。
悩んでいた私に、知人がこう言ってくれました。
そんなことをしていたら熱意が伝わらない、何でもいいからとりあえず書いて持っていきなさい。
その言葉で書き上げて、100万円の融資が下りたときは、自分にも信用がついたのだと思えました。
笑いのある場所を、ひとつでも増やしたい
以前の私は、自分のことしか考えていませんでした。
けれど今は、人の役に立てないか、笑いで誰かに貢献できないか、そればかりを考えています。
不思議なもので、自分を一度脇に置いてから、仕事のほうが回り始めました。
戦争はいまも世界のどこかで続いています。
落語を楽しめる時間があるということは、それだけで平和なことなのだと思います。
私の落語が、その平和に一歩でも近づく力になれたらと本気で思っています。
落語家になってほしいわけではありません。
失敗しても大丈夫だと、自分の口で言える人を増やしたい。
そのために、私はこれからも高座に上がり続けます。











